銀河を走る死者の列車

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば、僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(新潮文庫版)より引用)
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2011年の東日本大震災以降、仕事で宮沢賢治作品に触れる機会が多くなりました。今月も、「銀河鉄道の夜」を読み返しています。

90年代初頭、夏の「新潮文庫の百冊」キャンペーンのテレビCMで、女優の宮沢りえさんが、上記のくだりを朗読していたことを、今でもよく覚えています。ブラウン管のなかの美しい少女が、儚くも凛とした声で「ぼくのからだなんか百ぺんやいてもかまわない」と言ったその瞬間、多感な中学生の私は、まるで、世界中のエントロピーを凌駕する何かが、凄まじい勢いで放出されたかのように感じ、思わず鳥肌を立てたものです!

いま思えば、宗教色の濃い宮沢賢治作品は、ある一面において、どれも賢治さんが紡いだ「聖典」のようなものですから、多感な時期に鳥肌を立てるのも、無理はないかもしれません――個人的には、額面通りの“自己犠牲的精神”は少し苦手です。そういったものを超越した、感覚的な何かが、賢治さんの文章にはあるのです――。そういえば、とある大学の先生とお話した際にも、先生が「賢治さんの文章は、たった一行を抜き出しただけで、そこにはすでに完成された世界がある。一行だけでもカタルシスがある。このような作家は珍しい」という旨を仰っていました。まさにその通りだと思います。

銀河鉄道は、死者を運ぶ列車。それぞれの乗客に、それぞれが「旅」を終えるための終着駅があるのです。そして、まだこの世界に行きている人間には、死者と別れるための「旅」が必要なのかもしれません。ジョバンニが、カムパネルラを送るための「旅」を必要としたように……。

写真は、野中ユリの作品「青い花(一部)」の上に、私物のオペラグラス――観劇用のグラスですが、月やISS(国際宇宙ステーション)を確認するには、これでじゅうぶん――を置いて撮ったもの。十字に光を放つひときわ明るい星は、まるでサウザンクロスの駅のよう!