ぬばたまの 夜は明けぬらし

最期まで、生きようと必死だった。死んでたまるかと、息を吸い、吐こうとした。だから、彼女がこの世を過ぎ去った後、看護師や我々がいくら力を加えても、その口と顎は不格好に大きく開いたままで、結局、元には戻らなかった。
少しずつ身体の温もりが消え、彼女の亡骸を乗せたストレッチャーが霊安室に向かうときも、顎は大きく開いたままだった。はたから見れば滑稽だったかもしれないし、あるいは、ひどく苦しそうに見えるので気の毒に思えたかもしれない。

しかし、私には彼女の亡骸が、なぜか誇らしく感じられた。大きく開いた顎は、生きようとした証、そのものだから。彼女の顎は、私に生きるということの美しさ、無様さ、それから、どうしようもなさを、これでもかというほど教えてくれた。“崇高”という言葉は、彼女の亡骸のためにあるような気すらした。

夫を亡くしてから数十年を、国分寺にある小さな家でひとり過ごした祖母は、武蔵野の奥深くにあるホスピスで、こうして天寿を全うした。庭の花に水をやり、梅の木から実をとって梅干しをつくり、ザラザラとした舌触りの寒天ゼリーを冷蔵庫に冷やしておく祖母は、孫の私にとって、ただ、ひたすらに優しく大きな存在だった。

亡くなってから20年近く経つ今でも、つらく悲しいとき、私はかならず祖母の笑顔を思い出す。

「マヤちゃんは、いい子だね」

祖母がいなくなった早春のあの朝、心拍やら血圧やらを計測する小さな箱だらけのホスピスをひとり抜け出した私は、目の前にある森を分け入って、小さな鳥居と、朽ちたような祠を見つけた。
誰が最後にここを訪れたのかと思うほどに寂れた祠だったが、小さく会釈をして手を合わせたあと、天を仰ぎ見て、その眩しさに少しだけ泣いたことを覚えている。優しかった祖母は、もういない。

空っぽになった自分を、無償の愛で満たしてくれる人。そんな存在がひとりでもあったなら、人は生きていけるかもしれない。それが誰であってもかまわない。両親、友人、恩師、もしくは神である人もいるだろう。

私のような特性(発達障害)を持つ人間は、とかく自尊感情に乏しい傾向がある。ただでさえ、できないこと、苦手なことが多いうえに、それが特性ゆえだと理解されず、「なぜ、できないの?」と言われる場面が多いからだ。たとえば学習障害(LD)のある人に「どうしてうまく字が書けないの?」、注意欠陥・多動性障害(ADHD)のある人に「どうして段取りよくできないの?」と言ったところで、「どうしてと、言われても……」と口ごもるしかない。
口ごもり、そして、少しずつ、自分が空っぽになっていく。

「私、なんで生きているんだろう?」

そこまで空っぽになったら、優しかった祖母の笑顔と、最期まで懸命に生きようとした、あの亡骸を思い出す。すると、空洞のようだった身体が、少しずつ、美しい色で満たされていくのだ。

「マヤちゃんは、いい子だね」

祖母は私を、無償の愛を満たした。小さいころから色々なことが不器用だった私を、死してなお、肯定し続けている。

そんな存在がひとりでもあったなら、人は生きていけるかもしれない。