気がつけば、わたしは42歳になっていて、今年も夏が終わろうとしており、このハリボテのようなホームページは、サーバー代の支払いをすっかり忘れたがために、いつの間にか消滅していた(ということに今日気がつき、急遽、対処した)。
世の中はますます物騒になっていく。お金と語学と仕事さえともなえば、子連れで海外にでも移住してしまいたいところだ。しかし、そもそも私はパニック障害が理由で飛行機には乗れないし、現実的な話ではない。
だから、いろいろ不快に思うことはあっても、あいかわらず、私は出版前のさまざまなゲラ刷りを読み、息子を保育園に送り迎えし、苦手な人混みをレキソタンを噛み砕いてやり過ごす様な、そんな日常を過ごしている。
ニーチェの言葉に「すべての行動にはかならず不快の成分が伴う。けれどもこの不快はただ生の刺激として作用し、力への意志を強化するのである」というものがある。
生きていれば、どんな人にも不快に思うことの一つや二つ、あるだろう。それはつまり、誰もが「生の刺激」のスイッチを持っているということだ。
したがって、自分の望むこと、叶えたいことに、一歩でも近づかんとする私やみなさんは、たとえ、不快に思う事柄が生じても、「あゝ、これが生への刺激になるんだわ! 私を強くさせるのだわ!」と恍惚の表情を浮かべて(もちろん、浮かべなくともよろしい)、日々を生きていくほかない。
不快なだけでは、じつに損じゃないか! ニーチェの言うとおり、私たちはそれぞれの抱える、生きづらさ、あらゆる不快を、生への刺激のスイッチに変えて、希望へと突き進む力を養い、軽やかに、奮起していけばいいのである。
そしてーー。それでも世の中の不快に疲れることがあったなら、これまたニーチェの言うとおり、「君の孤独の中へ」逃れたらいい。
「君は君の安全な場所に帰れ。(中略)強壮な風の吹くところへ」
(『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳・中公新書、『ニーチェ全集(第十巻)』・白水社)