名残の柚子

【以下、銀座ウエスト「風の詩」に掲載されたエッセイ・再掲】

昨年の冬至の日、わたしは初めてスーパーで柚子を買った。幼いころから、柚子湯は毎年の行事となっていて、家族の健康をねがい、欠かせないものとなっている。

ではなぜ、初めて柚子を買うことになったのか。それは昨夏、両親がいわゆる「実家じまい」をし、マンションへと移り住んだからである。子ども達はとうに巣立ち、同居していた祖父母も亡くなり、両親は、急な階段の心配な年齢となった。一軒家を持て余した二人が、安心感のある集合住宅を選ぶのも、当然のことだろう。

実家には、亡き祖父の植えた植栽が多くあった。背の高い枇杷の木には手作りのブランコがかかっていたこともあったし、玄関先には、秋の到来を知らせる金木犀が、そして家の裏には、毎冬、鈴なりに実をつける柚子の木があった。

香りのよい黄金色のそれが実ると、あたり一面がぱあっと明るくなるようだった。冬が来るたび、わたしたちはこの柚子の恩恵に預かった。あまりにたくさん実るので、ご近所にお裾分けすることも、しばしば。実家を離れた後も、この柚子の木のおかげで、変わらず贅沢に柚子湯をたのしんでいたというわけだ。

昭和30年から二子玉川にあった、わたしの実家。とうに亡くなった祖父母の笑顔も、家族みなで泣いて笑った日々も、暮らしを彩った木々たちも、わたしがこの世を去るその日まで、胸のなか、消えることはないだろう。

それでも、毎冬、鈴なりに実をつけたあの木は、もうない。
わたしは実家での豊かな日々を思い出しながら、来冬も柚子を買うだろう。