夫は下関の出身であり、両親は、地元の赤間神宮で結婚式を挙げたという。
赤間神宮とは、壇ノ浦を望む高台に鎮座する神社で、その昔は、安徳天皇(平清盛の孫)を祀る、阿弥陀寺という寺だった。
安徳天皇は、わずか6歳にして、その生涯を終えた。それは、平家一門の終焉を意味する。
「私をどこに連れて行くのじゃ」
「極楽浄土の楽しさ美しさはこの世の都どころではございませぬ。
そこへお連れいたしましょうーー波の下にも都がござりまするぞ」
ちいさな手を合わせた安徳天皇は、祖母に抱かれて、壇ノ浦の海に泡沫と消えた。
これまでに何度か、赤間神宮を参拝したことがあるが、その社の朱の鮮やかさ、他に類を見ない、まるで竜宮城のような門構えには、目をみはるものがある。夫は、以前「ここは安徳天皇が向かった、海底の都なんだ。安徳天皇は、今、本当に極楽浄土にいるわけだね」と話してくれた。
史実とされるものが、どこまで事実なのか、もちろん誰にもわからない。しかし、うがった見方をすることなく、ただ、幼い息子を持つ一人の母としてこの物語を思うとき、私はどうしても、涙腺がゆるんでしまう。
この、赤間神宮(阿弥陀寺)を舞台にした物語がある。それは、浮かばれぬ平家の亡霊にとり憑かれ、自らの耳を失ってしまう琵琶法師の話『耳なし芳一』だ。赤間神宮には、安徳天皇をはじめとする平家一門を祀った一角があるのだが、その入り口付近に、琵琶を抱えた芳一の像もある。架空の人物にもかかわらず祀られていることに驚くが、おそらく御霊信仰に基づくものであろう。物語では、平家の御霊を慰めるために琵琶をかき鳴らした芳一が、今度は自身の御霊を慰めるために祀られているわけで、少し複雑なものを感じるが、おそらくは、そういうことだろう。
ちなみに、この、平家一門を祀ったエリアであるが、あきらかなる異空間である。いずれも真夏に参拝したのだが、ここにいる間だけは汗がひく。そして、うるさかった蝉の声が遠くに聞こえ、身体中の毛穴が引き締まるのだ……。
この、赤間神宮の異空間に吸い込まれた少女を描く、山岸凉子の「海底(おぞこ)より」という短編がある。この短編は現在、山岸凉子の自選作品集シリーズの一冊、『夜叉御前』(文春文庫ビジュアル版)に収録されているので、ぜひ、手にとっていただきたい。私は山岸凉子の短編が好きなのだが(もちろん『日出処の天子』を始めとする長編作品も大好きだが)、とにかく、怖い。しかし、その怖さが、病みつきになってしまうのだ。
文庫版の解説で、作家の夢枕獏が山岸凉子の短編の怖さについて、「薄く張りつめた氷の上に、これもまた細いクリスタルの針で描いていったような怖さと危うさがある(「解説−愛天使の人」より)」と表現しているが、まさしく、そういった類の、恐ろしさ、不安感に満ち満ちている。この巻はとくに粒ぞろいの作品ばかりで、上記の「海底より」をはじめ、「鬼来迎」、表題作の「夜叉御前」と、良い意味での「気持ちの悪さ」は圧巻である。どの作品も、夢とうつつのあわいにある、ぼんやりとした恐怖を描いているようでいて、最後にはかならず、それらを現実のものとして、読者の目の前に突きつける。その時、我々は、もれなく背筋を凍らせるのだ。
今月、赤間神宮で、このようなイベント(朗読ライブ)があるらしい。今年は帰省をしないので参加できず残念だが、もし、このイベントを平家一門が取り囲むように観ているのだとしたら……。行けないことも、さほど悔やまれないような気がする。
◆小泉八雲 朗読のしらべ in 赤間神宮 「夢幻—夢とうつつのあわいに現れるものたち」佐野史郎×山本恭司/8月26日(土曜日)