僕たちの本棚

先ほど、Yさんから、素敵な装丁の本が届いた。この本は、Yさんが運営されている書評サイト「ブック・ナビ」より厳選された、100本の書評を書籍化したものである。『僕たちの本棚』という書題には、銀色の箔押しがほどこされ、まるで浮かび上がるように光っている。どことなく私のヴンダー趣味をくすぐる、じつに美しい本だ。

Yさんは、映画とジャズとミステリを愛する、お洒落な“不良老年”であり、私がはじめて編集者としてはたらいた書籍編集部で、当時、編集長を務めていらした。私の憧れである梅原猛や、木村伊兵衛(写真集)を担当されていたことを、よく覚えている。あらゆる方面に造詣が深いYさんを、ひよっこの私は、かっこいいなあと思っていた。星野道夫のポストカードブックを、一緒に担当させていただいたこともあった。ちなみに“不良老年”という言葉は、以前Yさんが綴られていた「不良老年のNY独り暮らし」というブログタイトルに由来するもので、あくまで敬意を込めて使っている。誤解のなきよう。

その、Yさんのいる編集部で働くようになる以前、私はS潮社の出版部でアルバイトをしていた。ほとんど就職活動もせず大学卒業を迎え、“なんとなく”もぐりこんだ出版社だった。できることなら「芸術S潮」の編集部がよかったが、配属されたのは出版部である。私は人事部に「私は『芸術S潮』のファンなのです!」と食い下がってみたが、「あなたは書籍の編集者になりたいと言っていたから、良かれと出版部にしたのです」と言われ、すごすごと引き下がった。よくもまあ、クビにならなかったものである。

そして、出版部でたくさんの編集者を見ているうちに、やはり編集者になりたいという気持ちが強くなっていった。みな忙しそうにしていたが、朝からきっちり仕事をスタートさせる人もいれば、昼から出社する人もいる。また、外出ばかりでほとんど編集部にいないような人もいた。それに、いつでもデスクがごちゃごちゃで、積み上げられたゲラが、たびたび雪崩を起こすような人もいたが、それを怒るような人もいない。そんな「それぞれのペース」が尊重される編集者という職業は、私の目には、とても魅力的に見えた。もちろん出版社の性格もあるだろうが……。

Yさんは、じつに40年近くを雑誌記者、単行本編集者として過ごされ、退職後の現在も、フリーランスの編集者として活躍されている。ブログ「 Days of Books, Films & Jazz」も頻繁に更新されており、私はいつも楽しみにしている。本書同様、音楽、小説、映画と、カバーされるジャンルの幅の広さには、いつも驚かされるばかりだ。

いつかの私が憧れた編集者という職業には、終わりがない。いつも、少年少女のような好奇心のアンテナを張って、世界を見つづける。逆を言えば、そのような感性を持ち続ける人こそが、本物の編集者であるのだろう。私は、この『僕たちの本棚』を手にとって、あらためて、そんなことを考えた。

『僕たちの本棚 ブックナビ2001-2016』  山崎幸雄、野口健二、内池正名

第1章 ジャズを聞いたり映画を見たり
第2章 古代に旅し、昭和の戦争を考える
第3章 言葉が豊かにしてくれる、この世界
第4章 右手に世界地図、左手にグラス
第5章 小説の快楽に溺れて
第6章 僕たちの社会、昨日と今日

月が笑う夜に、導師はいない

新聞社に勤めていた叔父が、住井すゑにインタビューをしたというので、「ひええ」と興奮したのは、たしか10代後半のことだ。

私は、もともとあまり小説を読まず、どちらかといえば、音楽の方が好きだった。今も、音楽がなくては生きていけないだろうが、活字がなくても生きていけると思う。編集者になったのも、朝が遅くても構わないだろうという、単純な理由からだ。
ともあれ、小説をほとんど読まない私が、唯一、好きな作家が住井すゑだった。

はじめて『橋のない川』を読んだのは、中学一年生の時だったが、のこされた「感想文」には、ありきたりなことしか書かれておらず、どうも「それなり」の印象しか残らなかったようである。「やはり差別はいけないと思う」といったような、上辺だけの感想で、そこにはパッションのかけらもない。やはり、「それなり」の出会いだったようである。

しかし、その後しばらくして、住井すゑをふたたび読む「きっかけ」となる出来事があった。私が当時(今もか)、どっぷりとはまっていた、ソウルフラワーユニオンというロックバンドが、1996年に「エレクトロ・アジール・バップ」という名盤を出したのである。そのアルバムの中に、「エエジャナイカ」「海行かば 山行かば 踊るかばね」といった華やかな名曲にまぎれて、いささか地味ではあるが、確たる存在感を放つ「月が笑う夜に 導師はいない」という曲があった。この曲は、住井すゑの『橋のない川』に着想を得て、作られたものである。

どうしようもない切なさと、絶望と、わずかな希望とがないまぜになった、カタルシス溢れる曲である。多感な時期のこと。時には涙を流しながら、くり返し、くり返し、聴いた。「橋のない川か 川のない橋か」とは、いかにも中川敬らしい、アイロニーに満ちた問いかけ(歌詞)だと感服した。そして、この曲が発表された翌年、住井すゑはその生涯を閉じた。

そうしたきっかけを経て、ふたたび住井すゑを読むようになった私は、次第に作品のみならず、住井すゑというおばあちゃん、その人に惹かれていくようになる。自室の机の脇には、まるでアイドルの写真を飾るかのように、住井すゑの写真が貼り付けられていた。あれは、何の切り抜きだろうか? 牛久の自宅の庭であろう緑の小径を、控えめな色合いの着物を着て歩く、後ろ姿。たしか、傍らには紫陽花が咲いていたように思う。じつに良い写真だったので、ネットで検索してみたが、その背中には、ついぞお目にかかれなかった(ご存知の方いらしたら、教えてください)。

住井すゑは、どことなく母方の祖母に似ており、私はその姿を、亡くなった祖母に重ねていたように思う。住井すゑの晩年を写したその写真には、ちっとも悲壮感がない。丸く小さくなった背中に、若造には到底勝てないような、生命力がみなぎっている。その背中は、まさに祖母と同じだった。明治、大正、昭和という時代を生き抜いてきた女性の、なんとたくましいことか! 私が住井すゑに惹かれたのは、思想的な部分というよりも、そのたくましさ、生きる力に理由があった。仕事をしながら四人の子どもを育て、56歳にして長編小説『橋のない川』を書き始め、心身ともに病に侵された夫・犬田卯を支え、講演会をし、学習会を開き、95歳にして「橋のない川 第8部」とだけ書いたところで、力尽きた。その生き様こそが、一番の代表作であったように思う。

話を元にもどそう。住井すゑにインタビューをしたという叔父に、私はさまざまなことを問うたが、「いやあ、全部で7巻もあるから、読むのに時間がかかったよ」「普通のおばあちゃんだった」などと、あまりに“熱量”に差があったので、私は鼻白んだ。記事も確認したはずだが、あれは日曜版か何かだったろうか、全15段に及ぶような大きな特集記事だったにもかかわらず、内容をまったく覚えていない。それも、“熱量”に差があったからだろうか……?