「せんせい、あのね。」の効用

小学生のころ、「せんせい、あのね。」ではじまる日記のようなものを、ほぼ毎日、書いていた。当時の担任だった須山先生というベテラン女性教員は、国語が専門であったこともあり、日記の添削というのか、子どものつたない言葉からあふれ出る何かを、とても上手にキャッチしてくれる達人だった。

とにかく、毎日のように「せんせい、あのね。」を書いた。内容はほとんど、季節(花や気候など)に関する気づきや、家庭での出来事、習い事の報告などだった、と記憶している。

たとえば、秋。金木犀がアスファルトに落ちているのを見て、「道ろが、オレンジ色のじゅうたんのように見えました」と書けば、その表現に赤字で一文字ずつマルをつけて、余白に「とてもきれいな表現ですね。先生は、まやちゃんのそういった視点が好きよ」と書き加えてくれた。そして、そんなふうによく書けた日は、花まると、それから特別よかったときには金色の丸いシールもペタリと貼ってくれたのだった。

その花まるや金色のシール、なにより先生からの“肯定の言葉”が嬉しくて、わたしは、おそらくクラスで一番のペースで「せんせい、あのね」を書き続けた。いま思えば、それは単に文章力を養うためではなく、幼いわたしのための小さなセラピーだったように思う。

わたしのような特性を持つ人間は、繰り返すが、自己肯定力に乏しい。空気を読めなかったり、あるいは読みすぎたり、独自のルールからはみ出すことができずに「失敗」をすることが多いからだ。そして自己肯定力が低くなると、自分には何もない、ときには生きている意味すらないと思うまでに至り、落ち込む。そして、暗いオーラを撒き散らして、周囲に迷惑をかける……。

いつだったか、教育学者のS先生と雑談をしていると、「自己肯定感の低い人はねえ、周りが褒めたりなだめたりしなきゃいけないから、とにかく面倒臭いんです。重いんですよ(笑)。そうじゃなくて、自分の機嫌は自分でとるのが大人でしょうね。多少は自己肯定感が“高すぎる”くらいがちょうどいいんですよ。そう、軽やかにね」という話になったことがある。いやはや、まったくその通りで、わたしは顔を赤らめた。

いま、世の中が暗く、とかくイレギュラーなことの連続で、発達障害という特性をもつ人々にとって(もちろん辛さの種類は千差万別。いまはどんな人でも苦しい)、かなりしんどい状況にある。ところが皮肉なことに、ヘルプを出したい今だからこそ、「わたし、辛いんです!」「こんなふうに体調が悪くて」などと言い出しづらい側面があるように感じている。なぜなら、みんな一様に辛いことを知っているからだ。

「せんせい、あのね。」を、ふと思い出す。思いを書き、それを誰かが受け止めてくれて、ささやかな自己肯定感をもたらしてくれた、あのシステムを……。しかし、大人である私たちは、「自己肯定感を高めたいから、読んで。感想を頂戴!」というわけにはいかない。S先生なら、きっと「面倒くさいなあ(笑)」と笑うことだろう。

したがって、だれか好きな人、信頼できる人、あるいは好きだったけれど他界してしまった人などを思い浮かべて、「◯◯さん、あのね。」で始まる文章を書いてみるのはどうだろうか? とにかく書いてみることで、思いのほか、自分では意識していなかった感情が溢れて出てくるもの。だから、書きながら「ふむ、いま自分はこう悩んでいるのか。こんなことが不安なんだな」と、頭を整理することができる。書いているうちに涙が出てくることもあるかもしれないが、それも立派なセルフセラピーだ。

もちろん、書いた文章は、そっと引き出しやPCファイルのなかにとどめておこう。数年後、見返すと新たな気づきがあるかもしれない。

わたしも、今晩は須山先生にあてて「せんせい、あのね。」と、やってみようか。聞いてもらいたいことが、山ほどあるから……。

※画:野中ユリ 「二つの部屋」

奮起せよ、軽やかに。

気がつけば、わたしは42歳になっていて、今年も夏が終わろうとしており、このハリボテのようなホームページは、サーバー代の支払いをすっかり忘れたがために、いつの間にか消滅していた(ということに今日気がつき、急遽、対処した)。

世の中はますます物騒になっていく。お金と語学と仕事さえともなえば、子連れで海外にでも移住してしまいたいところだ。しかし、そもそも私はパニック障害が理由で飛行機には乗れないし、現実的な話ではない。

だから、いろいろ不快に思うことはあっても、あいかわらず、私は出版前のさまざまなゲラ刷りを読み、息子を保育園に送り迎えし、苦手な人混みをレキソタンを噛み砕いてやり過ごす様な、そんな日常を過ごしている。

ニーチェの言葉に「すべての行動にはかならず不快の成分が伴う。けれどもこの不快はただ生の刺激として作用し、力への意志を強化するのである」というものがある。

生きていれば、どんな人にも不快に思うことの一つや二つ、あるだろう。それはつまり、誰もが「生の刺激」のスイッチを持っているということだ。

したがって、自分の望むこと、叶えたいことに、一歩でも近づかんとする私やみなさんは、たとえ、不快に思う事柄が生じても、「あゝ、これが生への刺激になるんだわ! 私を強くさせるのだわ!」と恍惚の表情を浮かべて(もちろん、浮かべなくともよろしい)、日々を生きていくほかない。

不快なだけでは、じつに損じゃないか! ニーチェの言うとおり、私たちはそれぞれの抱える、生きづらさ、あらゆる不快を、生への刺激のスイッチに変えて、希望へと突き進む力を養い、軽やかに、奮起していけばいいのである。

そしてーー。それでも世の中の不快に疲れることがあったなら、これまたニーチェの言うとおり、「君の孤独の中へ」逃れたらいい。

「君は君の安全な場所に帰れ。(中略)強壮な風の吹くところへ」

(『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳・中公新書、『ニーチェ全集(第十巻)』・白水社)

ぬばたまの 夜は明けぬらし

最期まで、生きようと必死だった。死んでたまるかと、息を吸い、吐こうとした。だから、彼女がこの世を過ぎ去った後、看護師や我々がいくら力を加えても、その口と顎は不格好に大きく開いたままで、結局、元には戻らなかった。
少しずつ身体の温もりが消え、彼女の亡骸を乗せたストレッチャーが霊安室に向かうときも、顎は大きく開いたままだった。はたから見れば滑稽だったかもしれないし、あるいは、ひどく苦しそうに見えるので気の毒に思えたかもしれない。

しかし、私には彼女の亡骸が、なぜか誇らしく感じられた。大きく開いた顎は、生きようとした証、そのものだから。彼女の顎は、私に生きるということの美しさ、無様さ、それから、どうしようもなさを、これでもかというほど教えてくれた。“崇高”という言葉は、彼女の亡骸のためにあるような気すらした。

夫を亡くしてから数十年を、国分寺にある小さな家でひとり過ごした祖母は、武蔵野の奥深くにあるホスピスで、こうして天寿を全うした。庭の花に水をやり、梅の木から実をとって梅干しをつくり、ザラザラとした舌触りの寒天ゼリーを冷蔵庫に冷やしておく祖母は、孫の私にとって、ただ、ひたすらに優しく大きな存在だった。

亡くなってから20年近く経つ今でも、つらく悲しいとき、私はかならず祖母の笑顔を思い出す。

「マヤちゃんは、いい子だね」

祖母がいなくなった早春のあの朝、心拍やら血圧やらを計測する小さな箱だらけのホスピスをひとり抜け出した私は、目の前にある森を分け入って、小さな鳥居と、朽ちたような祠を見つけた。
誰が最後にここを訪れたのかと思うほどに寂れた祠だったが、小さく会釈をして手を合わせたあと、天を仰ぎ見て、その眩しさに少しだけ泣いたことを覚えている。優しかった祖母は、もういない。

空っぽになった自分を、無償の愛で満たしてくれる人。そんな存在がひとりでもあったなら、人は生きていけるかもしれない。それが誰であってもかまわない。両親、友人、恩師、もしくは神である人もいるだろう。

私のような特性(発達障害)を持つ人間は、とかく自尊感情に乏しい傾向がある。ただでさえ、できないこと、苦手なことが多いうえに、それが特性ゆえだと理解されず、「なぜ、できないの?」と言われる場面が多いからだ。たとえば学習障害(LD)のある人に「どうしてうまく字が書けないの?」、注意欠陥・多動性障害(ADHD)のある人に「どうして段取りよくできないの?」と言ったところで、「どうしてと、言われても……」と口ごもるしかない。
口ごもり、そして、少しずつ、自分が空っぽになっていく。

「私、なんで生きているんだろう?」

そこまで空っぽになったら、優しかった祖母の笑顔と、最期まで懸命に生きようとした、あの亡骸を思い出す。すると、空洞のようだった身体が、少しずつ、美しい色で満たされていくのだ。

「マヤちゃんは、いい子だね」

祖母は私を、無償の愛を満たした。小さいころから色々なことが不器用だった私を、死してなお、肯定し続けている。

そんな存在がひとりでもあったなら、人は生きていけるかもしれない。

僕たちの本棚

先ほど、Yさんから、素敵な装丁の本が届いた。この本は、Yさんが運営されている書評サイト「ブック・ナビ」より厳選された、100本の書評を書籍化したものである。『僕たちの本棚』という書題には、銀色の箔押しがほどこされ、まるで浮かび上がるように光っている。どことなく私のヴンダー趣味をくすぐる、じつに美しい本だ。

Yさんは、映画とジャズとミステリを愛する、お洒落な“不良老年”であり、私がはじめて編集者としてはたらいた書籍編集部で、当時、編集長を務めていらした。私の憧れである梅原猛や、木村伊兵衛(写真集)を担当されていたことを、よく覚えている。あらゆる方面に造詣が深いYさんを、ひよっこの私は、かっこいいなあと思っていた。星野道夫のポストカードブックを、一緒に担当させていただいたこともあった。ちなみに“不良老年”という言葉は、以前Yさんが綴られていた「不良老年のNY独り暮らし」というブログタイトルに由来するもので、あくまで敬意を込めて使っている。誤解のなきよう。

その、Yさんのいる編集部で働くようになる以前、私はS潮社の出版部でアルバイトをしていた。ほとんど就職活動もせず大学卒業を迎え、“なんとなく”もぐりこんだ出版社だった。できることなら「芸術S潮」の編集部がよかったが、配属されたのは出版部である。私は人事部に「私は『芸術S潮』のファンなのです!」と食い下がってみたが、「あなたは書籍の編集者になりたいと言っていたから、良かれと出版部にしたのです」と言われ、すごすごと引き下がった。よくもまあ、クビにならなかったものである。

そして、出版部でたくさんの編集者を見ているうちに、やはり編集者になりたいという気持ちが強くなっていった。みな忙しそうにしていたが、朝からきっちり仕事をスタートさせる人もいれば、昼から出社する人もいる。また、外出ばかりでほとんど編集部にいないような人もいた。それに、いつでもデスクがごちゃごちゃで、積み上げられたゲラが、たびたび雪崩を起こすような人もいたが、それを怒るような人もいない。そんな「それぞれのペース」が尊重される編集者という職業は、私の目には、とても魅力的に見えた。もちろん出版社の性格もあるだろうが……。

Yさんは、じつに40年近くを雑誌記者、単行本編集者として過ごされ、退職後の現在も、フリーランスの編集者として活躍されている。ブログ「 Days of Books, Films & Jazz」も頻繁に更新されており、私はいつも楽しみにしている。本書同様、音楽、小説、映画と、カバーされるジャンルの幅の広さには、いつも驚かされるばかりだ。

いつかの私が憧れた編集者という職業には、終わりがない。いつも、少年少女のような好奇心のアンテナを張って、世界を見つづける。逆を言えば、そのような感性を持ち続ける人こそが、本物の編集者であるのだろう。私は、この『僕たちの本棚』を手にとって、あらためて、そんなことを考えた。

『僕たちの本棚 ブックナビ2001-2016』  山崎幸雄、野口健二、内池正名

第1章 ジャズを聞いたり映画を見たり
第2章 古代に旅し、昭和の戦争を考える
第3章 言葉が豊かにしてくれる、この世界
第4章 右手に世界地図、左手にグラス
第5章 小説の快楽に溺れて
第6章 僕たちの社会、昨日と今日

月が笑う夜に、導師はいない

新聞社に勤めていた叔父が、住井すゑにインタビューをしたというので、「ひええ」と興奮したのは、たしか10代後半のことだ。

私は、もともとあまり小説を読まず、どちらかといえば、音楽の方が好きだった。今も、音楽がなくては生きていけないだろうが、活字がなくても生きていけると思う。編集者になったのも、朝が遅くても構わないだろうという、単純な理由からだ。
ともあれ、小説をほとんど読まない私が、唯一、好きな作家が住井すゑだった。

はじめて『橋のない川』を読んだのは、中学一年生の時だったが、のこされた「感想文」には、ありきたりなことしか書かれておらず、どうも「それなり」の印象しか残らなかったようである。「やはり差別はいけないと思う」といったような、上辺だけの感想で、そこにはパッションのかけらもない。やはり、「それなり」の出会いだったようである。

しかし、その後しばらくして、住井すゑをふたたび読む「きっかけ」となる出来事があった。私が当時(今もか)、どっぷりとはまっていた、ソウルフラワーユニオンというロックバンドが、1996年に「エレクトロ・アジール・バップ」という名盤を出したのである。そのアルバムの中に、「エエジャナイカ」「海行かば 山行かば 踊るかばね」といった華やかな名曲にまぎれて、いささか地味ではあるが、確たる存在感を放つ「月が笑う夜に 導師はいない」という曲があった。この曲は、住井すゑの『橋のない川』に着想を得て、作られたものである。

どうしようもない切なさと、絶望と、わずかな希望とがないまぜになった、カタルシス溢れる曲である。多感な時期のこと。時には涙を流しながら、くり返し、くり返し、聴いた。「橋のない川か 川のない橋か」とは、いかにも中川敬らしい、アイロニーに満ちた問いかけ(歌詞)だと感服した。そして、この曲が発表された翌年、住井すゑはその生涯を閉じた。

そうしたきっかけを経て、ふたたび住井すゑを読むようになった私は、次第に作品のみならず、住井すゑというおばあちゃん、その人に惹かれていくようになる。自室の机の脇には、まるでアイドルの写真を飾るかのように、住井すゑの写真が貼り付けられていた。あれは、何の切り抜きだろうか? 牛久の自宅の庭であろう緑の小径を、控えめな色合いの着物を着て歩く、後ろ姿。たしか、傍らには紫陽花が咲いていたように思う。じつに良い写真だったので、ネットで検索してみたが、その背中には、ついぞお目にかかれなかった(ご存知の方いらしたら、教えてください)。

住井すゑは、どことなく母方の祖母に似ており、私はその姿を、亡くなった祖母に重ねていたように思う。住井すゑの晩年を写したその写真には、ちっとも悲壮感がない。丸く小さくなった背中に、若造には到底勝てないような、生命力がみなぎっている。その背中は、まさに祖母と同じだった。明治、大正、昭和という時代を生き抜いてきた女性の、なんとたくましいことか! 私が住井すゑに惹かれたのは、思想的な部分というよりも、そのたくましさ、生きる力に理由があった。仕事をしながら四人の子どもを育て、56歳にして長編小説『橋のない川』を書き始め、心身ともに病に侵された夫・犬田卯を支え、講演会をし、学習会を開き、95歳にして「橋のない川 第8部」とだけ書いたところで、力尽きた。その生き様こそが、一番の代表作であったように思う。

話を元にもどそう。住井すゑにインタビューをしたという叔父に、私はさまざまなことを問うたが、「いやあ、全部で7巻もあるから、読むのに時間がかかったよ」「普通のおばあちゃんだった」などと、あまりに“熱量”に差があったので、私は鼻白んだ。記事も確認したはずだが、あれは日曜版か何かだったろうか、全15段に及ぶような大きな特集記事だったにもかかわらず、内容をまったく覚えていない。それも、“熱量”に差があったからだろうか……?

海底の極楽浄土へ

夫は下関の出身であり、両親は、地元の赤間神宮で結婚式を挙げたという。
赤間神宮とは、壇ノ浦を望む高台に鎮座する神社で、その昔は、安徳天皇(平清盛の孫)を祀る、阿弥陀寺という寺だった。
安徳天皇は、わずか6歳にして、その生涯を終えた。それは、平家一門の終焉を意味する。
「私をどこに連れて行くのじゃ」
「極楽浄土の楽しさ美しさはこの世の都どころではございませぬ。
そこへお連れいたしましょうーー波の下にも都がござりまするぞ」
ちいさな手を合わせた安徳天皇は、祖母に抱かれて、壇ノ浦の海に泡沫と消えた。
これまでに何度か、赤間神宮を参拝したことがあるが、その社の朱の鮮やかさ、他に類を見ない、まるで竜宮城のような門構えには、目をみはるものがある。夫は、以前「ここは安徳天皇が向かった、海底の都なんだ。安徳天皇は、今、本当に極楽浄土にいるわけだね」と話してくれた。
史実とされるものが、どこまで事実なのか、もちろん誰にもわからない。しかし、うがった見方をすることなく、ただ、幼い息子を持つ一人の母としてこの物語を思うとき、私はどうしても、涙腺がゆるんでしまう。

この、赤間神宮(阿弥陀寺)を舞台にした物語がある。それは、浮かばれぬ平家の亡霊にとり憑かれ、自らの耳を失ってしまう琵琶法師の話『耳なし芳一』だ。赤間神宮には、安徳天皇をはじめとする平家一門を祀った一角があるのだが、その入り口付近に、琵琶を抱えた芳一の像もある。架空の人物にもかかわらず祀られていることに驚くが、おそらく御霊信仰に基づくものであろう。物語では、平家の御霊を慰めるために琵琶をかき鳴らした芳一が、今度は自身の御霊を慰めるために祀られているわけで、少し複雑なものを感じるが、おそらくは、そういうことだろう。
ちなみに、この、平家一門を祀ったエリアであるが、あきらかなる異空間である。いずれも真夏に参拝したのだが、ここにいる間だけは汗がひく。そして、うるさかった蝉の声が遠くに聞こえ、身体中の毛穴が引き締まるのだ……。

この、赤間神宮の異空間に吸い込まれた少女を描く、山岸凉子の「海底(おぞこ)より」という短編がある。この短編は現在、山岸凉子の自選作品集シリーズの一冊、『夜叉御前』(文春文庫ビジュアル版)に収録されているので、ぜひ、手にとっていただきたい。私は山岸凉子の短編が好きなのだが(もちろん『日出処の天子』を始めとする長編作品も大好きだが)、とにかく、怖い。しかし、その怖さが、病みつきになってしまうのだ。
文庫版の解説で、作家の夢枕獏が山岸凉子の短編の怖さについて、「薄く張りつめた氷の上に、これもまた細いクリスタルの針で描いていったような怖さと危うさがある(「解説−愛天使の人」より)」と表現しているが、まさしく、そういった類の、恐ろしさ、不安感に満ち満ちている。この巻はとくに粒ぞろいの作品ばかりで、上記の「海底より」をはじめ、「鬼来迎」、表題作の「夜叉御前」と、良い意味での「気持ちの悪さ」は圧巻である。どの作品も、夢とうつつのあわいにある、ぼんやりとした恐怖を描いているようでいて、最後にはかならず、それらを現実のものとして、読者の目の前に突きつける。その時、我々は、もれなく背筋を凍らせるのだ。

今月、赤間神宮で、このようなイベント(朗読ライブ)があるらしい。今年は帰省をしないので参加できず残念だが、もし、このイベントを平家一門が取り囲むように観ているのだとしたら……。行けないことも、さほど悔やまれないような気がする。

小泉八雲 朗読のしらべ in 赤間神宮 「夢幻—夢とうつつのあわいに現れるものたち」佐野史郎×山本恭司/8月26日(土曜日)

散れば咲きして百日紅

北斎の花鳥画「菊に虻」の上に、もうずいぶんと汚れてしまった、杉浦日向子の『百日紅』を置いてみる。
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私は夏生まれですが、もはや憎んでいると言って良い程に、この季節が嫌いです。汗をかいて洗濯物が増える、フェスで皆が浮かれる、暑さで貧血になる、日差しで頭痛になる、嗚呼、すべてが気に食わない! 8月に入り、私の脳と心は、そろそろ沸騰してしまいそうです。
そんなわけで、いつも眉をしかめて、アスファルトの照り返しのなかを歩いているわけですが、そんな私を、ふと笑顔にさせるものがあります。――それは、サングラス越しにも飛び込んでくる鮮やかなピンク、薄い紫、白、赤、紅――色とりどりの、百日紅(さるすべり)の花。

葛飾北斎を主人公に、江戸という時間を描いた傑作漫画『百日紅』のタイトルについて、著者の杉浦日向子は以下のように解説しています。

「『散れば咲き 散れば咲きして 百日紅』とは、江戸の女流歌人、加賀千代女の句です。家から駅へ行く道に、百日紅の木がたくさんあり、梅雨明けを合図に、わっと咲きはじめます。(中略)――果実がたわわに成る、とは言いますが、この木は花がたわわに咲き、花の重みで、枝が弓なりになってしまいます。わさわさと散り、もりもりと咲く、というお祭りが、秋までの百日間続きます。長い長いお祭りです。百日紅のしたたかさに、江戸の浮世絵師がだぶり、表題はこんなふうに決まりました(『百日紅』(ちくま文庫版・夢枕獏「解説」より引用))」

したたか、とは思いませんが、私のような日陰者は、百日紅の持つみなぎる生命力、そのくどいまでの美しさに魅かれてしまいます。陰陽のバランスをとろうとしているのでしょうかね。ですから、江戸の時代に90まで生きて万物を描き、その一生で93回も引っ越しをするようなエネルギー溢れる奇才・葛飾北斎と「散れば咲き 散れば咲きして」咲く百日紅をだぶらせた著者の感覚に、大きく頷くのです。私は北斎も大好きですから(私が北斎の作品のなかでもっとも好きなのは、「蛸と海女」という春画。まさしく、ほとばしる熱いパトス!)。

『百物語』(新潮社)という作品をきっかけに杉浦日向子さんを好きになって、その他の作品も読みあさり、ずいぶんと影響を受けました。以前、江戸の小話に関する書籍を担当した際、「ぜひにも杉浦日向子さんに解説を」とお電話を差し上げたことがありましたが、その時にはすでにご体調をずいぶんと悪くされていて、残念なことに、私の願いは叶いませんでした。

杉浦日向子さんが亡くなり、もう10年近くが経ちます。命日は7月22日。
百日紅が、もっとも美しく咲き誇る季節、でしたね。

銀河を走る死者の列車

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば、僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(新潮文庫版)より引用)
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2011年の東日本大震災以降、仕事で宮沢賢治作品に触れる機会が多くなりました。今月も、「銀河鉄道の夜」を読み返しています。

90年代初頭、夏の「新潮文庫の百冊」キャンペーンのテレビCMで、女優の宮沢りえさんが、上記のくだりを朗読していたことを、今でもよく覚えています。ブラウン管のなかの美しい少女が、儚くも凛とした声で「ぼくのからだなんか百ぺんやいてもかまわない」と言ったその瞬間、多感な中学生の私は、まるで、世界中のエントロピーを凌駕する何かが、凄まじい勢いで放出されたかのように感じ、思わず鳥肌を立てたものです!

いま思えば、宗教色の濃い宮沢賢治作品は、ある一面において、どれも賢治さんが紡いだ「聖典」のようなものですから、多感な時期に鳥肌を立てるのも、無理はないかもしれません――個人的には、額面通りの“自己犠牲的精神”は少し苦手です。そういったものを超越した、感覚的な何かが、賢治さんの文章にはあるのです――。そういえば、とある大学の先生とお話した際にも、先生が「賢治さんの文章は、たった一行を抜き出しただけで、そこにはすでに完成された世界がある。一行だけでもカタルシスがある。このような作家は珍しい」という旨を仰っていました。まさにその通りだと思います。

銀河鉄道は、死者を運ぶ列車。それぞれの乗客に、それぞれが「旅」を終えるための終着駅があるのです。そして、まだこの世界に行きている人間には、死者と別れるための「旅」が必要なのかもしれません。ジョバンニが、カムパネルラを送るための「旅」を必要としたように……。

写真は、野中ユリの作品「青い花(一部)」の上に、私物のオペラグラス――観劇用のグラスですが、月やISS(国際宇宙ステーション)を確認するには、これでじゅうぶん――を置いて撮ったもの。十字に光を放つひときわ明るい星は、まるでサウザンクロスの駅のよう!